薬師寺での法話とマインドフルネス

あけましておめでとうございます。

令和5年のお正月は薬師寺に初参りに行きましたが、行ってみるとちょうど良いタイミングで法話が聞けました。
薬師寺の法話は噂通りとても面白くて、その話術に惹き込まれたのですが、内容も興味深いものでした。

マインドフルに観る

法話の中に現代社会は情報にあふれていて、人々は情報を得るために五感を外の世界には向けるけど、自分の心に意識を向けることが無くなっている、という意味のお話がありました。

お寺に写経に来られた人の中には心配事を抱えていて心配事がペタッと頭に張りついている人がおられるとのこと。そんな人に「写経をしている時間はその心配事を忘れていたでしょ?」と話しかけるとハッと気付かれるというお話があり、私はその話からマインドフルネスを連想しました。
法話では、写経に使っている般若心経の最初の「観自在」という言葉を持って帰って下さいと言われましたが、深い言葉だと感じます。

マインドフルネスという言葉は元々仏教からきたものです。法話にはマインドフルネスという言葉はありませんが、内容的に共通するものが入っていたとしても当たり前ですね。

写経をしている時間は一文字一文字に集中することで、雑念から解放されるという意味合いがあるのでしょう。一種の瞑想だと思います。
マインドフルネス瞑想では例えば呼吸に意識を向けて、雑念が湧いてもただ気づくだけでそれに囚われません。

五感を自分の内面世界を観るために使ってみると、実にさまざまなことに気づきます。

時間の流れを変える

自分に意識を向けて、何が起こっているのか気づき続ける、それがマインドフルネス瞑想でしていることです。その時間は雑念が次々に浮かんでくることもあります。「あぁ、いろいろなことを次々と考えているんだなぁ」と気づくとそれらの雑念とは距離を置くことができます。

私たちは普段、様々なことを考え、たくさんのことを判断し、時に同じ考えをループして悩み、頭は忙しくフル回転しています。

写経やマインドフルネス瞑想をしている時間は、普段の生活で使っている頭の使い方とは違った頭の使い方をしています。時計の指し示す時間と、自分でこのくらいの時間が経っただろうという感覚は違います。
思ったより長かったり短かったりしますが、どちらにしても忙しくはありません。

普段とは違った頭の使い方をすることで、いつもの自分のパターン(考え方や物事の捉え方の癖、価値観)を少し横に置くことができ、新しい自分の発見につながります。

気づきは自由への一歩

生きていると、良いことも悪いこともあります。辛いことや悲しいこと、楽しいことやうれしいこと、いろいろな出来事があります。

それらの出来事をどう捉えるかは人それぞれです。同じ出来事を良いことのように感じる人もいれば、何か裏があるんじゃないかと穿った見方をする人もいます。

私たちは自分の内の世界も外の世界も自分独自の見方で見ています。それは私たちが今まで生きてきた証でもあると思います。もし、今までの人生で、今の自分を制限するような見方を身につけざるを得なかったとしても、いつとも違う頭の使い方をしてみることで「自分の見方はこうなんだなぁ」と新たな発見をすることができます。

写経を終えてお坊さんに話しかけられた人がハッと気づいたように、私たちも自分について新しい発見をしていけたら、生きやすさを身につけることができる。そんなことを考えさせられたお正月でした。